インプットについて考える

読書メモ:『インプット・ルーティン 天才はいない。天才になる習慣があるだけだ。』

インプット・ルーティン 天才はいない。天才になる習慣があるだけだ。
優れたアウトプットを生み出し続けたければ「インプット」の方法を変えよ。若きクリエイターに贈る知的インプットの技法!

「本歌取り」から始まるアウトプット

なぜか、この本を読んだ後、下記のブログ記事の内容を思い出しちゃった。

中美日
中國人和美國人的距離還是比和日本人近,yiyidaishui notwithstanding。美國人會說——比…

米人や中国人だったら、作品を倣うことに対する何らかの抵抗感を抱えることに対し、

日本人は、何もこだわりや葛藤を抱かず、とりあえず肖る「師匠」となる作品を熱心に倣ったりすればいつか偉大なる作品も作れるはずだと。

中國人和美國人的距離還是比和日本人近,yiyidaishui notwithstanding。美國人會說——比如——某某棒球手有特殊打法,「但你不能那麼打,因爲你不是他。」中國人會說——比如——Glenn Gould:可以欣賞,不宜學習。但日本的說法是:「和歌不存在老師。舊詩就是我們的師傅。只要從舊風格裏找靈感,從舊詩人那裏學詞彙,怎麼可能寫不出好詩呢?」

自分が物事を思えるごろから、日本人ってどういう存在かというと、最初にこういうふうに周りから教わってきた。

よその国から技術や文化などを自分の国にうまく取り入れ、国の発展をさせた。さらに近代以来、率先して西洋の先進国のものを鵜呑みぐらい熱心に勉強してきて、明治維新を経て国の大きな発展を成し遂げた。

いわゆる「倣い」あるいは「本歌取り」の風習・思想は、今でも日本人のクリエーターの中で制作の方法論に通底しているものではないかと、この書を読んだ後に改めて認識した。

まさに日本人が書いた本で、本歌取りという技法が全書の隅々まで反映されているように見える。

渋谷の松濤美術館で開催された杉本博司の展示会で、初めて「本歌取り」ということを知りました。

杉本博司 本歌取り 東下り
本歌取りとは、本来、和歌の作成技法のひとつで、有名な古歌(本歌)の一部を意識的に自作に取り入れ、そのうえに新たな時代精神やオリジナリティを加味して歌を作る手法のことです。作者は本歌と向き合い、理解を深めたうえで、本歌取りの決まりごとの中で本歌と比肩する、あるいはそれを超える歌を作ることが求められます。

本書で紹介された超折衷主義は、本歌取りに近いものと感じて気付きました。

超折衷主義は意外性のあるモノの組み合わせから制作する方法であり、日本に限らず世界中に多くの傑作でアウトプットの「手段」として採用されている。

一方で、それはあくまで作品の制作手段であって、作品を制作する目的ではない。また、自分が考えた組み合わせは、まず世界中の誰かも思い付いたものだと思うべき。

機械的に組み合わせすると、秀作どころか駄作の可能性が高い(そういった作品の中から評判を得たものもあるのだが…)。なので、構想から制作まで高い質で組み合わせの実践を真剣に取り組まなければならないのである。

話を逸らしちゃうが、実際に作品が完成するまでのあらゆる段階の執行力や細かいところまで遂行できるチームワークも含む重要であるかと筆者が考察している。

冒頭で紹介したインプットと繰り返しにはなるが、モノの組み合わせの手段だけじゃ作品が成り立たないだからこそ、大量のインプットにより生まれた美意識が作品の質を左右する。つまり、インプットで五感を鋭く磨け。これが本歌取りにも通底している意識ではないかな。

インプットとは

決してエンタメや暇潰しなどではなく、インプットは仕事(生業)と思ってする。

そして、いいアウトプットを生む条件は大量な質のあるインプットだから、質と量、両方もこだわらねばならない。

1)いいものではなく、すごいものしか撮らないようにする

2)大量に、ルーティン化してとらなきゃならない

いわゆる、インプットとは、頭のダンベルであり、負荷のある読書でも意味する。

やり方の肌感覚を身に付く

プロのインプットは、大量、ルーティンかで取れるように、自らの仕組み(ワークフロー)を工夫している。

読んだ本に対して、アーカイブする方法だとか紹介されたけど、自分がもっと書いて欲しかったのは、フローの状態に入るための習慣や、読書を始めやすい認知科学的な工夫などの紹介だった。

いずれにせよ、TikTok のように簡単に中毒する方法がないはずだけど。

いかに読んだ本を管理するのかは、重要かつ困難なものだと考えている。それに、人それぞれのやり方が違うだろう。

Etc.

クリエイションとは形のないものに形を与えること。すごい抽象的な定義だが、確かにそうだよねと思いながら感心していた。

音楽も、文学も、メタファーの使い方において類似するものである。最初は歌詞のテキストというものかと思いきや、メロディーでもそういう文学的な特徴をおもつ、新鮮な知見なので、留めておいた。

最後に、トレンディな話でもある AI と創造の話題だが、改めて想像力の重要性が強調された。デリダがいう「Aura」ものなのだろうか。AI に代替されず、人間らしい自分らしいのは、想像力なのである。

面白く論じられてきたのは、技術についての考え方を駆使して想像力を鍛えること。残念ならが現実においては、人間の想像活動が次第に技術の産物に支配されつつあるようだ。現状を抗する意味でもはじまりとして、能動的にAI を含む技術を使いこなすべきだろう。変化には少しでもあるような抵抗感を抱いており、あまりその辺に積極的にやってはいないけど。

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方法としてのマラソン

方法としてのマラソン

1 授業で学んだマラソンの方法  授業を始める前に、私は体を動かしたかっただけで、ぼんやりとジョギングをしていた。徐々に1キロずつ距離を上げていたが、フルマラソンほどの距離なんて走りようもないと思っていた。授業でマラソンの方法を身につけることができた。方法があれば、残るやるべきことは実践しかない。心強くなってきた。最初に印象に残っていたのは1時間走ればフルは完走できるとのことだった。それからペースという変数を抑えれば完走はできる。その時わかってきたのは、走ることに関わるパラメタを調整する意識だった。単純な物理問題で、速度を時間で積分すると距離になる。時間を犠牲したら、距離は満たせると導出できる。最初の適正なペースはE班だと7分半~ぐらいだったので、思ったランニングな感覚どころか、もはやウォーキングじゃないかと思った。実はマラソンのトレーニングでは一番感心したのは、速さを慣れることより、遅さを我慢することだった。しっかり遅めのペースで走るほうが土台を築き、成長につながるのだ。マラソンには、速くなりたい焦燥を飲み込んで、心の鍛えとしての方法もすごくあると考える。  怪我は運動に伴う。だ

By Yan